Cross 6
「おかん、行ってくるで…」
忍足はいつもと少し早い時間に家を出た。
考えることが多くなった忍足は、気をまぎらわせようと早めに部室へ行く。
身体さえ動かせば、テニスへと集中する。
それで、他のことは考えなくてもよくなる。一番身近な逃げ道だった。
家を出たとき、朝から会いたくない人にあった。
ペコリとお辞儀をしたオレンジ色の頭。千石だった。
「少し、いいかな。忍足君とキチンと話がしたいんだ……」
いつもとは雰囲気が違う千石に忍足は怖かったが、うなずいた。
「…忍足君、知りたがってたよね。俺と跡部君のこと……」
突然に沸いた話題。
以前にもそう言いながら、無理やりに忍足の身体を奪った。
忍足には瞬時にそのことが頭をよぎった。
「俺は…聞きたくない……もう、俺には関係あらへん…」
忍足は足を止めた。
「関係ないんだったら聞けるはずでしょ?それともまだ跡部君のこと『好き』だから聞きたくないの?」
忍足の腕を掴む千石。
「もう…跡部のこと…なんか『好き』やない…。もう放っといてや…」
忍足はその掴まれた腕を振りほどいたが、千石に再び、腕を掴まれた。
「忍足君。俺は跡部が好きだったんだ。でも、素直になれなかったんだ。
跡部君が目の前から消えてしまうのが怖くて、…怖くて、…それを埋めるために身体だけを重ねてたんだ。
そう、俺は君に嫉妬してた…」
――跡部君に愛されてる君を――
突然の千石の告白に忍足は色を失った。
「君をめちゃくちゃにしたかったんだ。そうすれば、跡部君も俺のこと見てくれると思ったから。
でもそれは苦痛だった。跡部君を抱いているときも君を抱いているときも…安らげなかったんだ。
跡部くんは君を好きだから。好きだった俺じゃなくて……ね」
「…今さら…何いうてん…の?今更…何やっ!」
忍足は思わず、声を張り上げた。
千石が現れなかったら、こんなことにはならなかった。
そう…千石があらわれなかったら…。
「謝っても謝りきれないのは分かってる…。でも…忍足君、君たちなら…やり直せるでしょ」
千石の真剣なまなざしが忍足を射抜く。
「俺たちは別れたんやで…」
「関係ないっ!」
千石の掴んだ手に力がはいる。
「うるさいっ!こんなことをした自分に言われとうないわっ!」
つかまれた腕を振り払った。だが、千石の腕は振り切れなかった。
「忍足君っ!」
「離しやっ!」
三度忍足は千石の手を振り払った。
手はすんなりと力なく、すり抜けた。
「ごめん…忍足君。朝からこんな話して…残念だよ…」
千石はうつむきながら、忍足の前から消えた。その顔には笑顔がなかった。
その千石の後姿をみて、忍足はチクリと胸が痛くなった。
――俺は…悪とうない…――
忍足はそうつぶやいた。
放課後。
千石と忍足がそんな会話をしているとは知らない跡部は榊に呼ばれていた。
職員室の榊の席の前で跡部は立つ。
「跡部、気持ちの整理はついたのか?」
榊監督はすべてを知っている。
「…はい」
跡部は短く返事をした。
「そうか。それよりも一週間後、他校との練習試合をする。
この試合の結果次第ではレギュラーの総入れ替えを考えている。お前も例外ではない。
それと、他校のチームの代表が今日、挨拶にくると思うがよろしく頼む」
突き刺すような双眸で榊は跡部を射抜く。
「――わかりました」
跡部もそれ以上いわずに返事をした。榊は机の上にあったプリントの束を跡部に手渡し、
「今日から練習試合に向けての強化メニューを個人ごとに増やす。これはレギュラーの分だ。
各自に配布し、始めるように。それから異議があれば、聞こう。以上だ」
跡部はそのプリントを受け取り、職員室を出た。
テニスコートには各自が練習をしていた。
もちろん忍足もその中に入っている。
跡部はレギュラー全員を呼び寄せ、プリントを渡すとそれぞれ練習へ戻っていった。
「忍足」
跡部は練習に戻る忍足を呼びつけた。
「何や、跡部?」
いつもと変わらない表情で忍足は跡部の方に振り向いた。
「部活が終わったら話がある。必ず待ってろよ」
忍足は返事をしないまま、練習に戻る。入れ替わりに向日が近づいてくる。
「跡部、俺が見張っててやるよ。このままじゃいけないと思うし…」
向日はそれだけいうと練習に戻った。
跡部はその後ろ姿を見送るとフッと苦笑した。
日が暮れ、部活も終わった部室内には跡部と忍足がいた。
向日は跡部が部室に来た直後に帰った。
忍足は本当ならすぐにでも帰りたかったが、さすがに向日を押し退けてまで帰る気がしなかった。
仕方ないので、話だけ聞こうと観念したのだが…正直なところ何も聞きたくなった。
今更、何だというのだ。
戻りたいと思う。でも…気持ちが納まらなかった。
「忍足、すまなかった…俺はお前を失って気づいた…」
跡部は忍足を引き寄せると強く抱きしめた。
「あ…」
忍足は驚きながらも跡部の腕の中で納まった。
「忍足…お前を失いたくない。ずっと俺様のそばにいろ…」
――俺が好きなのはお前だ、忍足――
忍足は心地よい感触と温かさに包まれた。
このまま、ずっと埋もれていたい。
「何いうてんっ!!」
忍足は跡部の体を押し退けた。
「…駄目や…もう戻れ…」
顔を伏せたまま、忍足は搾り出すように声を出す。
「あの男のことが忘れられへん…どうしても…無理なんや…」
何度も受け入れてしまった身体に跡部を裏切ったという自責の念が忍足の心に深い傷をつけた。
「それでもいい。今はそれでもいい…少しずつ、忘れさせてやる…必ず」
跡部は忍足の身体を再び、抱きしめた。今度はきつく。
「跡部…」
忍足は跡部の腕の中でそれに答えるかのように抱きしめ返した。
「忍足…好きだ。すべてを失くそうとも…お前がいればいい…」
跡部は忍足の両目から溢れる涙を唇で受け止めた。
「…あと…べ…俺も…好きや…もう…離さんといて…」
「あぁ…もう離さないぜ…」
跡部は忍足の唇に自分のそれを重ねた。
その数日後、千石は跡部と忍足が元の鞘に戻ったという風の便りをきいた。
よかったという嬉しさと振られたという悲しみと心の奥底に残る後悔が入り混じっていた。
落ち着いたら、もう一度、謝りにいこうと思う。何度でも…そう思っていた。
「吹っ切れたと思ったんだけどなぁ…」
千石は歩きながら、頬に流れる涙を感じていた。
「千石」
ふと、正面から名を呼ばれた。知っている声。今はあまり会いたくない。
気づかないふりをして通り過ぎようと思った。
すれ違う瞬間、知人は千石の腕を掴んだ。
「もう、決着はついたのかよ…」
亜久津だった。
千石は振り向かずに、静かにうなずいた。
「そうか。じゃぁ、思いっきり泣けよ」
亜久津はそういうと、千石を抱きしめた。
そんな亜久津の優しさが今の千石には嬉しかった。
思いっきりとはいえないが、亜久津の腕の中でしばらく、千石は顔をうずめていた。
「千石…、俺でよかったら、頼れよ…」
亜久津は小さな声で千石に向けて、つぶやいた。
「…亜久津って優しいんだね…」
「チッ、言ってろよ」
そう返す亜久津の顔が少し紅くなっていたのを千石は見逃さなかった。
それから何日か後。
忍足はいつもの通りに朝練のためテニス部部室に入った。そこには跡部がいた。
「おはよーさん、跡部。いつも早いなぁ〜」
準備を終えた跡部が椅子に座っていた。
「お前を待ってたんだぜ、放課後だとうるさいからな…」
忍足はそのうるさい原因を思い出すと思わず笑みがこぼれた。
「あんまり岳人を責めんといてな。悪気はないんやから…」
向日は跡部と忍足が元の鞘に戻ったと聞くと自分のことのように喜んでいた。
忍足にしてみれば嬉しいことなんだが、
その後も部活やら放課後にべったりと岳人がついてくることがしばしばあった。
『今度は俺が侑士を守るー』
とか、言って…。
――――可愛いやけどなぁ……いつ跡部が怒り出すかわからへんからなぁ…―−
…――
忍足はそんなことを想いつつ、結局岳人が可愛かったりする。
彼には色んな面でお世話になったし。と、跡部にフォローをいれつつ、しばらくは放っておいてやる。と、
跡部の許可ももらったので、今のところナントカ、跡部が怒る気配がないので心配はない。
そんなことを思っていると、跡部は椅子から立ち上がり、ラケットを持つ。
「忍足、まだ時間早いが、軽く打とうぜ」
「望むところや、負けへんで」
しばらく、コートからストロークの音が流れた。
以前と変わりはない。でも、気持ちの上で変わった気がする。
今は少し、前に進めたと思う。
これからは、二人で乗り越えられそうな気がする。
そう…二人で――。
ちなみに練習試合はどういうわけか山吹にきまり、はじめのうちは忍足もこわばっていたが、
調子を取り戻し、その日の練習試合は氷帝の勝ちだった。
その練習試合の後、
千石と亜久津から妙な報告を受けた。
「忍足君、跡部君、元気?」
相変わらずのフワフワしたオレンジ色の頭。
隣には亜久津が一緒にいて、奇妙な光景だった。
「元気って、お前。毎日俺たちに詫びに来てるだろう?」
あれから千石は暇さえあれば、二人に詫びにきているという。
「そういえば、昨日もきたんだっけ」
そんなこともあって、忍足も少しずつ千石を許そうと努力しているらしいが。
「今日はね、いい機会だから報告しようと思って…」
跡部と忍足は何の報告だろうと訝しげたが、内容を聞いた二人は驚愕した。
「実はね、俺たち付き合ってんだよ。エヘヘ」
相手が何で亜久津なんだ?と思うが、こいつの好みはわからないと改めて思う跡部だった。
「よ、よかったじゃねーか、相手が見つかって…」
「あー跡部君、今一瞬、ひかなかった?」
跡部と千石が軽く言い合っている。ふと、忍足は亜久津と目が合ってしまう。
「…幸せにな」
忍足はそんな言葉しか思い浮かばなくて口にした。
「あぁ」
亜久津も短く返事をした。
「亜久津はね、俺の過去とか知ってて、それでもいいっていってくれたんだ」
千石はエヘヘ。と笑顔を浮かべながら、亜久津を見た。
当の亜久津は照れているようだ。
「千石」
跡部に呼ばれ、千石は声のほうを向いた。
「もう、詫びにこなくていい。俺たちもお前ら以上に幸せになるから…な」
跡部は忍足の方に向くと笑みを浮かべる。
忍足も静かに頷いた。
「…わかった…ありがとう、跡部君…」
千石は目じりに熱いもの感じつつ、亜久津に支えられながら、顔を伏せた。
空は青く広がっていた。
完